八百長・大相撲の歴史 - 大相撲 八百長

若瀬川 1957年(昭和32年)の大相撲八百長疑惑 国会招致された「チョンマゲ参考人」

八百長問題に揺れる大相撲日本相撲協会ですが
今から54年も前にも八百長問題が取りざたされ、若瀬川という力士が証人として国会招致されるという騒動が起きていました。

その際、「茶屋制度は廃止したらどうか」「相撲協会は公益法人でなく株式会社でよいのではないか」といった、まるで今の騒動とまったく同じような議論が国会でされていたのです。

以下は1957年(昭和32年)4月3日の衆議院文教委員会でのやりとりから抜粋

●質問:川崎秀二衆議院議員
相撲を愛するファンとして、今どうも五場所でも十二日目以後の横綱同士の相撲は半分が真剣で半分が八百長くさい、というのはつまり七番か八番か、幾らあるか、そのうち半分はほんとうで半分は八百長くさいという評判が今日あるのです。
(中略)
場所によって星の借り貸しをしておる。こういうことがもっぱら言われておるのです。

●参考人 若瀬川(西前頭6枚目)
僕ら相撲取りが今聞かれたような十三日目以後は八百長だとか、そういうことを聞くだけでも頭の痛くなるような、僕らの一番いやがることであります。
それはその人が自分の心の持ちようによって、見るものも自然と変ってくるんじゃないかと思うのであります。
この相撲は初めからくさいと思って見られれば、それはあるいは――くさくないと僕は断言しません
その人の気持の持ちようであります。
しかし僕ら青年時代を相撲いちずに生きてきたものは、そういうことは聞くにたえないことであります。
われわれ力士は天下の関取りでございますと言って大きな顔をして道を歩けるのも、日本古来の国技の相撲で、八百長というものが全然ないと断言できるから大きな顔をして歩けるのであります。
しかしどういうのを指されたのか知りませんが、そういうことを奮われるということは、現在われわれ力士会の不徳のいたすところでありますから、僕は力士会へ帰った場合は糾明するつもりでおります。

●川崎秀二衆議院議員
今の信念を伺って、あなたに対しては非常に敬意を払いますし、そういうふうにだんだん全力士がなるような雰囲気を作って、ますます発展されるように祈るわけであります。
きょうは質問でありますので、いろいろ非常に気持の悪くなることも申し上げなければならぬのは非常に残念でありますが、いろいろ問題点を洗ってみたいと思うのです。

このやり取りを見る限り、大相撲に関しては皆半分どこかで「八百長もあるのではないか」という気持ちで見ており、しかし疑いを向けられた力士は「相撲は国技で神聖なものである。いつも真剣勝負だ。われわれ相撲取りはえらいのだ。そのような質問自体が失礼ではないか。」といった「プライドの問題」に微妙にすり替え、かわしている流れが見てとれます。

現に、若瀬川はここでも「くさくないと僕は断言しません」「その人の気持ちの持ちようであります」「どういうのを指されたのか知りませんが」といっています。

相撲における八百長といわれるものは、あなた方が考えるようなものではない。一般人から見れば八百長かもしれないが、それは我々の世界の常識から言えば八百長ではない
若瀬川はそういいたかったようです。

若瀬川わかせがわ)泰二の経歴

・しこ名 若瀬川わかせがわ)泰二(たいじ)
・1929年生まれ 兵庫県出身
・所属 伊勢ヶ濱部屋
・幕内成績 352勝395敗19休
・最高位 小結

引退後は能弁で人情味あふれる人柄で人気の相撲解説者「若瀬川忠男」として活躍しました。


板井圭介 いたいけいすけ 八百長告発暴露力士 会見 大鳴戸親方 その後 現在

板井圭介いたいけいすけ)とは、元力士(小結)で大相撲八百長告発者としては、最も有名な人物です。

板井圭介の現役力士時代の画像
板井圭介 いたいけいすけ

板井圭介は1956年生まれで大分県臼杵市出身・所属は大鳴戸部屋で、初入幕は1978年、1991年引退。一時期しこ名を親方の現役時代と同じ「高鐵山(こうてつやま)」にしていました。

板井圭介八百長の関わりを告発したのは、最初はなんと親方である大鳴戸親方からでした。大鳴戸親方は部屋を廃業していたのですが、弟子である板井が、「板井は現役時代に千代の富士グループの八百長工作の仲介役中盆:なかぼん)だった」と証言。これに対して板井圭介は沈黙を守っていましたが、その後大鳴戸親方(と後援会会長の二人)は謎の不審死をとげます。

実際、板井は現役時代に千代の富士に全敗しており、また千代の富士の最後の白星対戦相手が板井だったのです。


しかし板井はその後新興宗教GLAに入会し、八百長の真実を明かすことは自分の使命と考えるようになります。

そして2000年の1月に、板井圭介外国特派員協会会見で、あの史上最もハデで大々的な八百長暴露に至ったわけです。会見の中で板井圭介は横綱・曙以下20数名の八百長力士の実名をあげています。
また記者から「板井さん、八百長の証拠はありますか?」と聞かれ「私自身が証拠です!」と名言を吐いていました。また板井は「全力士の80パーセントは八百長に手を染めていた」とも。

外国特派員協会八百長暴露する板井圭介
外国特派員協会 八百長暴露 板井圭介

そしてその板井圭介が現役時代の自身の八百長暴露した「懺悔本」。


中盆(なかぼん)」とは八百長の仲介役のことで、今回の八百長メール事件では恵那司がこの「中盆」にあたるとみられます。

しかし板井圭介の現役時代の評判はあまりよくないですね。引退後の年寄襲名が日本相撲協会から却下されたのも、現役時代の土俵上での振る舞いの悪さ、成績の悪さ、八百長への加担が疑われていたから、など諸説あります。

見ようによっては日本相撲協会に少なからず恨みがあるから、八百長暴露に至ったかも、とも思えます。

ちなみに板井圭介その後ですが…
廃業後一時、東京江戸川区内で相撲料理の店を経営していましたが、それも廃業し、現在ガラス工をしているらしいです…

八百長の歴史 相撲の八百長は江戸時代に完成 スポーツになったのは昭和以降

相撲は江戸時代に庶民の娯楽・興業になる 勝敗よりもエンターテイメント性を重視 同時に八百長始まる



↓江戸時代の相撲のようす(浮世絵)
相撲 江戸時代 浮世絵

相撲の歴史に初めて土俵が登場したのは江戸時代のことです。江戸時代になると平和な時代の庶民が娯楽を求め、相撲興行として行われるようになります。観客からお金を取って相撲を見せるショーですね。そうなると観客と力士が戦う場所の「区分け」を明確にする必要から、一段高い土俵というものが初めて登場するわけです。

同時に、それまでの相撲は現在の格闘技のように「相手を倒すまで」やっていたものが「土俵から出たら負け」という継続が可能な新たなルールができました。さらに土俵上で行う礼儀作法も現在の形に近いものがほぼ完成します。

同時に興業なので、対戦を盛り上げるための要素である番付制度(ランキング)というものも登場します。当初は横綱はなく、大関関脇小結>前頭でした。
そしてこの「大関・関脇・小結」のいわゆる三役が初めて文献に登場するのは1699年です。

この時代に力士に初めて「報酬」が発生します。つまり力士が職業になったわけです。最初は番付に関係なく年功序列でした。今とまったく逆ですね。

この時代に興業となった相撲は、どちらかといえば現在のプロレスに近いものでした。または現在でも行われている地方での巡業相撲ですね。勝敗のみにこだわるのではなく、エンターテイメント性を重視した相撲ショーですね。

そして観客もあくまで娯楽として楽しんでいましたから、勝負そのもの以外に力士の立ち居振る舞いや繰り出される技を楽しみ、舞台で歌舞伎を見るような感覚でした。
観客が盛り上がるように負けた方がいい場合はわざと負けてあげる「人情相撲」というものも、この時代に始まったようです。

↓同時に今で言うところの「八百長」も、この時代に始まりました。


また、江戸で行われている相撲の「地方場所」も江戸時代からです。相撲の興行は年に4回行われ、江戸で2回、大阪京都で1回ずつでした。

つまり現在行われているいわゆる「興業としての大相撲」は、この時代にほぼ完成を見ています。


明治時代、西洋的価値観が輸入されて相撲はスポーツに



江戸幕府が崩壊して西洋的価値観を導入した明治時代、サッカー、ラグビー、野球など、いろんな西洋のスポーツが導入されると、「相撲もスポーツとして見るべきでは?」という気運が高まり、自由民権運動のリーダーだった板垣退助が「日本固有の相撲の真剣勝負を外国人にも見てもらう常設会場が必要だ!」と唱え、1909年に現在の両国に「国技館」が建設されます。
当然ですがそれまでの日本は鎖国をしていたので、「日本の国技は何?」というのは考えもしませんでした。外国の存在を意識し、日本「国」の存在を意識し、初めて「じゃあ、日本の国技は?」と考えて、自然と相撲になったわけです。
ただこの当時から法律で相撲が国技と定められていたわけではなく(現在もそうですが)、相撲の常設館の名前を何にするかとした時に「国技館」という名称が浮上し、当時の親方衆から「それいいね!」となったそうです

しかし、この「国技館」建設の翌年に、相撲界でとんでもない事件が勃発します…

八百長の歴史 相撲の始まり・起源はいつ?八百長は江戸時代から始まっていた?

大相撲八百長問題で揺れていますが、そもそも国技といわれる日本の相撲はいつ始まり、八百長というものはいつ頃から行われるようになってきたのか?


神話時代・古墳時代に始まった相撲(格闘技)



日本の相撲歴史・起源は、諸説ありますが、「古事記」(神話)にはタケミカヅチの神が出雲を平定する際に、出雲のタケミナカタの神がタケミカヅチの腕をつかんで投げようとした、という描写があります。
これが相撲の起源ともいえますが、神話なので「古い」だけで年代の特定ができないのと、人間ではなく神様同士の戦いとされているので…

人間が行った相撲で、記録に残る一番古いものだと、今から二千年前というのがあります。
日本書紀」には紀元前23年野見宿禰のみのすくね:埴輪・はにわの元祖といわれる)と、當麻蹶速たいまのけはや)という強者同士が、主に蹴りを主体とする「格闘技」で戦ったという記録がありますが、最後に野見宿禰が當麻蹶速の腰の骨を折って絶命させてしまったそうです。しかもこれが賞賛されることだったらしく、相撲というよりどちらかといえば実戦的な武道や武術の起源なのでしょう。実際にこの歴史は「柔術の起源」にもなっています。説によっては、これを相撲の起源としない見方も強いようです。

野見宿禰のみのすくね)と當麻蹶速たいまのけはや)の相撲を描いた絵馬(花巻市・早池峰神社)の画像
野見宿禰(のみのすくね)と當麻蹶速(たいまのけはや)の相撲を描いた絵馬

ちなみに最古の横綱?である野見宿禰(のみのすくね)は、史上最強の力士であるとされていて、あちこちにお奉りしている神社があるそうですね。

↓墨田区亀沢の野見宿禰(のみのすくね)神社の画像
野見宿禰(のみのすくね)神社
野見宿禰(のみのすくね)神社

また「古事記」の垂仁記には、初めて「力士(ちからひと・すまひひと・すまいびと)」の文字が登場しています。

さらに飛鳥時代には百済(朝鮮半島)の王族の使者をもてなすために、健児こんでい)という力士に相撲をとらせたという記述があります。

この時代には古事記や日本書紀意外にも、多くの古文献に相撲らしき記述があり、一般的にいわれる奈良時代以前から相撲といえるものは存在していたようです。


最古の女相撲は古墳時代?


記録に残る最古女相撲は、「日本書紀」によると紀元469年に雄略天皇の前で2人の女官が褌を着けて相撲をとったという記録があるそうで、これが日本における最古の女相撲の記録です。

↓友近の女相撲(笑)


相撲が正式に制定されたのは奈良時代 これが相撲の起源?


相撲に初めて「ルール」が導入されたのは奈良時代で、「突く殴る蹴るの三手の禁じ手・四十八手・作法礼法等」が紀元726年に正式に制定されました。

これが正式な相撲の起源とする説が強いようです。

また「続日本紀」には「全国から力自慢を集め、7月7日の七夕の日に宮中で聖武天皇天覧相撲を楽しんだ」という記述があり、天覧相撲てんらんずもう:天皇が鑑賞なさる相撲の試合)は1300年の歴史があるわけです。

↓「七夕と相撲の古代史」

当時はまだ土俵はなく、相手を倒せば勝ちの、今でいう「ガチンコ」でした。

ちなみにこの時代には相撲は「すもう」ではなく「すまい」と読んでいました。

貴族の時代・平安時代に様式美が強まり、ガチンコ衰退 そして細分化


この死者も出そうな格闘技であった相撲は、貴族の時代である平安時代になると神様に捧げる神事となり
髪の毛をつかむなどが禁じ手となり、初めて「まわし」が登場しました。
技の美しさや儀礼が重んじられ、「弓取り式」が登場し、芸能神事としての要素が強くなります。
この時の宮中では「三度節」として「射礼(じゃらい:弓を射る競技:弓道)」「騎射(きしゃ:馬に乗って弓を的に当てる競技)」そして「相撲」が行われ、壮大で豪華絢爛であったそうです。

この時期に神事・芸能としての相撲の様式は、ほぼ完成しているようです。

さらに平安後期になると、それまでは天皇や貴族しか見ることのできなかった神事である相撲(宮廷相撲)が
神社やお寺の祭礼で神や仏に捧げるために行われるようになり、「地域の催し物」すなわち「興業」という側面が登場します。
今でも神社などに土俵があって相撲大会などが行われる地域もありますよね?その紀元はこんなに古かったんですね。

ちなみにこの時代に、一般庶民による相撲は「草相撲」または「土地相撲
神社などで神事として行われる相撲は「神事相撲」といい、農作物の豊凶を占い、五穀豊穣を願い、神に感謝を捧げる神事でした。
武士が行う「武家相撲」は、武道の鍛錬であり、実践のための訓練の一種でした。

貴族・武士・農民にそれぞれ違った形の相撲が広まり、細分化していったわけですね。

戦国の武士の時代には格闘技となり、再びガチンコ復活


貴族が衰退する鎌倉・室町・安土桃山時代には相撲は再び武道・ガチンコ勝負となります。

戦国時代大名達は各地から力自慢の相撲人すまいびと)を集めて自分たちの家臣として抱え
相撲鑑賞に興じたり、またその中で特に強い相撲人は、元農民であっても武士になることもあったそうです。

当然のことながら、大名の前で行う「御前試合」はガチンコの真剣勝負。

ことに織田信長は大の相撲好きで、安土城で上覧相撲(将軍の観戦する相撲の試合)をやらせ、優勝者に自分の弓を与えたそうで、これを「弓取り式の起源」とする説もあるそうです。

ここまでガチンコ様式ガチンコと来ましたが、「八百長」というのはさすがにまったく登場していません。
それでは、相撲の歴史上「八百長」が初めて登場したのはいつなのか?

それは徳川家康の天下統一が行われて、武家社会でありながら超安定社会を実現した江戸時代になります。

↓江戸時代の「大相撲」の黎明期に八百長をさせられた力士「雷権太夫」の物語・横綱誕生秘話(以下引用)
大相撲黎明期を綴る三つの物語。相撲に志を抱くも、八百長相撲ばかり取らされてきた雷権太夫は、幕府により禁止されていた勧進相撲を復活させようと町奉行所に掛け合う。最強の力士は誰だ?圧倒的な強さで勝星を重ねる谷風、その最大の好敵手・小野川、そして伝説の力士・雷電―。江戸相撲黄金期に繰り広げられた名勝負。明治政府の欧化政策により勢いを失っていた相撲界。陣幕久五郎はその再生のために力士顕彰事業を思いつく。番付最高位“横綱”誕生の秘話。



↓江戸時代の力士のすべて!






石原慎太郎 最初の八百長告発 大鵬-柏戸戦を八百長と発言し謝罪 相撲協会は名誉毀損と告発

大相撲八百長問題に関して、石原慎太郎東京都知事が2月4日に「今さら大騒ぎするのは片腹痛い。私の知っているかぎり相撲はそういうもの。(八百長は)昔から当たり前のこととしてあったんだよ」と発言しました。

石原慎太郎

「歌舞伎の大見えを堪能して見るみたいに、だまされて見て楽しんでればいいんじゃないか。そういうものだ、相撲ってものは」

相撲が国技とされていることに対しても、「日本の文化の神髄である国技というのは 、ちゃんちゃらおかしい。私はそれ(八百長)を知っていたから横綱審議委員を固辞した。
ならなくてよかった」

その石原慎太郎氏は、実は過去に大相撲のある取り組みを「八百長」と発言し、物議を醸したことがありました。

石原慎太郎の1963年の大鵬-柏戸戦・八百長発言事件



1963年(昭和38年)の大相撲秋場所で、当時ケガや病気続きで休場の多かった柏戸に対して解説者の元力士・玉の海が「柏戸に勝たせたいねぇ」と発言するなど、柏戸に対して同情する空気ができていました。
そして休場から再起をかけた秋場所千秋楽で、柏戸大鵬との取り組みを制して全勝優勝を果たし、日本中が感動の渦に。

しかしこの柏戸の優勝決定戦後、当時作家だった石原慎太郎氏が新聞に「あれは八百長ではないか?」という文章を掲載。

当時の時津風理事長が対戦相手の大鵬を問い詰めましたが、大鵬自身は「絶対に八百長はやっていない」と断言しました。これを受け日本相撲協会石原慎太郎氏を名誉毀損告訴する準備を始めましたが、石原慎太郎氏が謝罪することで相撲協会は告訴を取り下げ、この件は決着を一応の決着をみました。

有名人が大相撲の八百長疑惑について公に口にしたのはこれが史上最初ではないだろうかと思われます。

先日の石原慎太郎都知事の発言をみると、過去にこういう事があり、告訴されかかってこりた、と言うのもあるかもしれませんが「相撲とはこういうものだ。人の心の機微が勝負に反映されることも含めて大相撲だ。」という認識に変わったいったようです。

ちなみにこの1963年の大鵬-柏戸戦は、高鐵山という元力士が「八百長」という自著の中で「初めて大掛りな注射相撲(八百長相撲)をしたのが柏戸さん」と記しています。真相はどっちなのか…

大相撲の八百長の歴史 過去の事件 年表 大鳴戸親方怪死事件 板井圭介八百長暴露 朝青龍八百長疑惑事件

大相撲八百長というのは、今回のメール事件で決定的な証拠が出るまでは、何度も出ては消えていました。
過去の大相撲八百長関連の歴史年表にしてみました。(記事部分は週刊ポストの記事より引用しました)

●1963年 作家・石原慎太郎氏「八百長発言」で謝罪
石原慎太郎氏(現都知事)63年秋場所千秋楽の大鵬―柏戸戦について、作家として新聞紙上で八百長と発言。協会は名誉毀損(きそん)で告訴したが、謝罪を受けて取り下げた。

>石原慎太郎 最初の八百長告発 大鵬-柏戸戦を八百長と発言し謝罪 相撲協会は名誉毀損と告発

●1996年〜1998年 大鳴戸親方怪死事件
元大鳴戸親方(元関脇・高鉄山)96年2月に「週刊ポスト」で八百長を証言。協会は20人以上に事情聴取し、発行元の小学館などを名誉毀損容疑で刑事告訴。記事掲載の2カ月後に同親方を含む告発者2人が同日に同じ病院、同じ死因で死亡した。境川理事長(元横綱・佐田の山)らが東京地検で八百長を否定し、98年4月に嫌疑不十分で不起訴処分に。

>大鳴戸親方怪死事件 経緯 相撲界最大の闇 八百長告発で二人が消された? 同じ日に同じ病院で同じ死因で二人死亡!

●2000年1月 元小結・板井圭介氏、八百長外国特派員記者会見で暴露
板井圭介氏(元小結・板井)00年1月に「週刊現代」で八百長の存在を告発し、日本外国特派員協会で2度の講演も行った。協会は名誉毀損であるとの抗議文を送付。法的手段も検討したが、現役、親方含めて22人から事情聴取して八百長を否定。騒動に幕を引いた。
>板井圭介 いたいけいすけ 八百長告発暴露力士 会見 大鳴戸親方 その後 現在

●2000年6月 元小結・旭鷲山が八百長を告発した週刊ポストから和解金をふんだくる
元小結・旭鷲山 00年6月に「週刊ポスト」に八百長を報じられ、名誉毀損として個人での提訴に踏み切った。東京地裁で出版社側の申し入れを受け、謝罪記事の掲載と数百万円の和解金で決着した。


●2004年9月 八百長を告発した前伊勢ケ浜親方降格処分
前伊勢ケ浜親方(元大関・清国)04年9月、「週刊ポスト」で八百長相撲やドーピング問題を指摘。同親方は役員待遇を解かれ、無気力相撲を取り締まる監察委員へ降格した。


●2007年1月 朝青龍八百長疑惑事件
元横綱・朝青龍 07年1月に発売された「週刊現代」が横綱・朝青龍の八百長などを告発。朝青龍は疑惑を完全否定。同年2月8日に相撲協会は、発行元の講談社と執筆者の武田頼政氏を提訴。また「週刊現代」は白鵬の師匠である宮城野親方(現熊ケ谷、元十両・金親)が06年名古屋場所千秋楽で大関(当時)の白鵬と朝青龍が八百長をしたと元愛人に告白したテープを入手したと報じた。力士らも原告となった裁判は協会側が全面勝訴したが、宮城野親方は師匠の資格を剥奪され、部屋付き親方となった。


そして今回の大相撲八百長メール事件となります…

こうやって見てみると、やり直しのチャンスは何回もあったのに、ずっと「臭いものにフタ」ですましたあげくの無期限の本場所中止という事態に至っているわけですね…


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