八百長の歴史 相撲の八百長は江戸時代に完成 スポーツになったのは昭和以降 - 大相撲 八百長

八百長の歴史 相撲の八百長は江戸時代に完成 スポーツになったのは昭和以降

相撲は江戸時代に庶民の娯楽・興業になる 勝敗よりもエンターテイメント性を重視 同時に八百長始まる



↓江戸時代の相撲のようす(浮世絵)
相撲 江戸時代 浮世絵

相撲の歴史に初めて土俵が登場したのは江戸時代のことです。江戸時代になると平和な時代の庶民が娯楽を求め、相撲興行として行われるようになります。観客からお金を取って相撲を見せるショーですね。そうなると観客と力士が戦う場所の「区分け」を明確にする必要から、一段高い土俵というものが初めて登場するわけです。

同時に、それまでの相撲は現在の格闘技のように「相手を倒すまで」やっていたものが「土俵から出たら負け」という継続が可能な新たなルールができました。さらに土俵上で行う礼儀作法も現在の形に近いものがほぼ完成します。

同時に興業なので、対戦を盛り上げるための要素である番付制度(ランキング)というものも登場します。当初は横綱はなく、大関関脇小結>前頭でした。
そしてこの「大関・関脇・小結」のいわゆる三役が初めて文献に登場するのは1699年です。

この時代に力士に初めて「報酬」が発生します。つまり力士が職業になったわけです。最初は番付に関係なく年功序列でした。今とまったく逆ですね。

この時代に興業となった相撲は、どちらかといえば現在のプロレスに近いものでした。または現在でも行われている地方での巡業相撲ですね。勝敗のみにこだわるのではなく、エンターテイメント性を重視した相撲ショーですね。

そして観客もあくまで娯楽として楽しんでいましたから、勝負そのもの以外に力士の立ち居振る舞いや繰り出される技を楽しみ、舞台で歌舞伎を見るような感覚でした。
観客が盛り上がるように負けた方がいい場合はわざと負けてあげる「人情相撲」というものも、この時代に始まったようです。

↓同時に今で言うところの「八百長」も、この時代に始まりました。


また、江戸で行われている相撲の「地方場所」も江戸時代からです。相撲の興行は年に4回行われ、江戸で2回、大阪京都で1回ずつでした。

つまり現在行われているいわゆる「興業としての大相撲」は、この時代にほぼ完成を見ています。


明治時代、西洋的価値観が輸入されて相撲はスポーツに



江戸幕府が崩壊して西洋的価値観を導入した明治時代、サッカー、ラグビー、野球など、いろんな西洋のスポーツが導入されると、「相撲もスポーツとして見るべきでは?」という気運が高まり、自由民権運動のリーダーだった板垣退助が「日本固有の相撲の真剣勝負を外国人にも見てもらう常設会場が必要だ!」と唱え、1909年に現在の両国に「国技館」が建設されます。
当然ですがそれまでの日本は鎖国をしていたので、「日本の国技は何?」というのは考えもしませんでした。外国の存在を意識し、日本「国」の存在を意識し、初めて「じゃあ、日本の国技は?」と考えて、自然と相撲になったわけです。
ただこの当時から法律で相撲が国技と定められていたわけではなく(現在もそうですが)、相撲の常設館の名前を何にするかとした時に「国技館」という名称が浮上し、当時の親方衆から「それいいね!」となったそうです

しかし、この「国技館」建設の翌年に、相撲界でとんでもない事件が勃発します…
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